『不適切にもほどがある!』(TBS)の純子ちゃんが今日も今日とて可愛い( ˘ω˘ )
よく「他人と比べるな」「比べるのは過去の自分」とかいうけど、、
・・・むりじゃない( ˘ω˘ )???
近くにめちゃくちゃ仕事できる先輩・後輩がいたり、
自分は全然成長してないって思ってたりしたらさ、
「あー。あの人たちと比べて私はなんてダメなんだろう・・・」
って、思っちゃう。
でさ、なんでこんなに周りと比べて落ち込むんだろうなー、と考えたときに、
気づいたことがあるので、すこしシェアしますね
【落ち込む原因】
①「比べる相手が自分と同じフィールドにいて、少し手を伸ばせば届きそう」という気持ちがある
実力差が歴然だったり、実力は同じくらいだけど違う分野にいる人だったら、そもそも比べないよね
例えば自分が部活で野球やってるとして、「オオタニサンに比べて私なんて・・・」とは思わないだろうし、サッカー部の同級生に対しても何とも思わないでしょう(あいつはやたらモテて羨ましいな、、とかはあるかもしれない)
同じ職場でも、「部長・課長はあんなに仕事できるのに私は・・・」とは思ったりしない(逆に、ポンコツ上司に甚だ手を焼いていてモヤモヤしてるという人はいそう)
同じフィールドで身近な存在が、”自分よりも(ちょっとだけ)優れている”と感じたときに、ものすごく劣等感を抱くのだと思う。
でもそれって、本当にそうなのかな?
”優れている”って、何だろう?
”手が届きそう”って、どういうことだろう?
自分が他人に対して「あの人はすごい」と思っていることは、多くの場合「自分に足りないもの」だと思うけど、それって相手から見たときに「自分も違う強みを持っている」可能性があるよね
だから、金子みすゞの詩じゃないけど、「みんなちがってみんないい」わけで、「あの人が上で自分は下」みたいに悲観する必要はないよね
あと、"手が届きそう"っていうのも、そもそも手を伸ばす必要ある?って話なんだよね
例えば仕事に関する知識が豊富で、顧客からも信頼されている先輩がいるとして、「もっと勉強してあの人みたいにならなきゃ!」て思うよね
で、もちろん勉強はしたほうがいいと思うんだけど、顧客に信頼されるってのは勉強とはちょっと違う領域だよね
ここで大事になってくるのは、お勉強を頑張ることもそうだけど、「その知識を顧客のために使うこと」であって、それはコミュニケーションの話になってくる(顧客のために使わず知識をため込むのは、ただのウンチク魔です)
そうすると、コミュニケーションの取り方は人それぞれだし、100%すべての顧客から信頼を勝ち取るなんて無理だし(どんなに優秀な人でも「ハマらない相手」はいる)、となれば「あの人」を目指すことに意味はなくて、「自分はどうあるべきか」「自分には何ができるか」を考えて、自分なりに行動したほうがいいよね
デキる人に憧れる気持ちはよくわかるし、それを目指して頑張ることを否定するものではないけど、他人と比べてへこむくらいなら、最初から「デキる人を目指すのなんて意味なくない?」と割り切るのもありじゃないかなってことです
②物事には「正解がある」と思い込んでいる
これはちきりんさんの『自分の意見で生きていこう』(2022)を読んで気づいたんだけど(この本についてはもう少し深堀したい)、
私はこれまで受験勉強に毒されてきたからか、「世の中の物事には正解がある」と思い込んでいた
でも、ビジネスにおいても、生活においても、「重要な問題には正解がない」んだよね
どんな仕事をするか、どの場所で働くか、家は賃貸か持家か、結婚するかしないか、子どもは作るか作らないか、、、
問題が重要であればあるほど、正解はない
私は、「リーダーとはかくあるべし」みたいな正解(理想像)に縛られて、
その理想を体現するような優秀な人たちも周りにいっぱいいて、
「それに比べて私は・・・」とか思っちゃってたんだよね
でも、正解って何だろう?
メールは即レス、深夜休日問わず連絡がつき、常に顧客をリードし最善の道を進み、決め台詞は「私、失敗しないので」。。。
これがリーダーとしてあるべき姿・・・なのか・・・?
そう考えたときに、やっぱり出発点となるのは「自分はどうあるべきか、本当はどうしたいのか」ってところだと思うんだよね
だからさ、①・②のいずれも、他人と比べることに「意味はない」と理解し、「自分のあるべき姿・やりたいこと」にフォーカスすれば、ちょっとは気持ちが楽になるし、そうやって自分と向き合って実力を磨いていけばきっと知らぬ間に「デキる人」になれてるんじゃないかな、と思うのです
実際私はこの境地に至り、周りの人のいいところは「すげーなー」と素直に受け止めつつも、基本的には「どーでもいーなー」と思っています。おかげで、以前はあんなに苦しかったのに、今ではすんごい気が楽です
では( ˘ω˘ )スヤ